ブックタイトル日本結晶学会誌Vol59No6

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概要

日本結晶学会誌Vol59No6

甲斐泰先生を偲ぶ幹事を務められた際には,低分子の構造解析とタンパク質のⅩ線構造解析の講習会を1年ごとに交代し,阪大で4年連続で開催し,X線結晶構造解析を広く科学分野に普及させる活動を企画し,実施され,さらに2004年には日本結晶学会年会の実行委員長を務めました.2010年から2年間,日本結晶学会の会長も務めたほか,日本学術会議の結晶学研究連絡委員会委員・庶務幹事,特任連携会員やIUCr分科会委員なども歴任され,2008年度の国際結晶学連合会議(IUCr2008)の日本誘致に大変に努力をされました.誘致決定後は大会組織委員会事務局長として大会の企画・立案と円滑な運営に尽力され,会議の成功に大きく貢献されました.終始一貫してⅩ線構造解析という研究手法を広く世に広めながら,大学にあっては構造化学の教育と研究指導に注力され,日本における結晶学の発展に大きく貢献したことが認められて2013年に日本結晶学会の名誉会員にも推戴されました.甲斐先生との出会いは,1989年(平成元年4月),修士課程から笠井研究室に所属し,ブルー銅タンパク質のⅩ線構造解析に携わったことがきっかけでした.時代としては高エネルギー加速器研究機構(KEK)で共同利用実験が開始されて間もない頃で,1988年に膜タンパク質のⅩ線構造解析でドイツのMax planckのグループにノーベル賞が贈呈され,日本におけるタンパク質のⅩ線構造解析が本格始動する頃でした.「構造生物」という言葉に新鮮さを覚えたのもその頃で,タンパク質の構造解析に必要なSilicon Graphics社製の高価な計算機の導入のために奔走していただいたことを今でも覚えています.後から大阪大学名誉教授の鈴木晋一郎先生(当時,理学研究科)からも支援をいただいていたことを知り,いろいろな先生方に助けていただいたお陰で博士号を取得することができたことを今でも感謝しています.昨年,大阪大学工学部物理化学講座としては50周年を迎えました.久しぶりに同窓会を開催しましたが,先生は冒頭のスピーチの中で,昔のⅩ線回折実験に用いた虫眼鏡と強度スケールを写真で示され,5000~6000という数の回折強度データを目視法で測定したことを紹介されました.しかし,それは単なる懐かしいお話としてではなく,(苦労は)“いつかは終わる”,“楽天主義”で生きなさいというメッセージを込めて熱く語って下さいました.今から思えば,次世代を担う若い後輩達に,「夢をもちなさい」,「それをやり遂げなさい」と激励して下さったように思います.いつも細かいことはおっしゃいませんでしたが,人を大きく育てるやり方を貫かれました.一方,先生は強運の持ち主でもありました.36年ぶりに日本で開催された国際結晶学連合会議(IUCr2008)で事務局長を務められましたが,空前の円安と,8月にしては記録的な涼しい天候に恵まれました.8月23日から30日日本結晶学会誌第59巻第6号(2017)の真夏の大阪の平均気温を是非想像していただければおわかりかと思います.2008年は日中の最高気温の平均は28.6度,最低気温の平均は23.2度でした.30度をわずかに超えた日がたったの2日間でした.これを前年の2007年8月23日から30日の平均温度と比較すると最高は33.6度,最低は26.3度で,最高気温は平均で5度も低かったことがわかります.何より円安は多くの海外参加者を呼び込むことに繋がり,約900人の日本人参加者に対してほぼ倍の1800人が海外から大阪を訪れ,会を成功に導かれました.もちろん,事務局長としてやるべき仕事はきっちりと準備しながら,運も呼び込まれたことは言うまでもありません.また,甲斐先生との思い出の中で印象的だったことは「日記」のことでした.先生は教授になられてからチェロを始められましたが,福井でも演奏可能な下宿を探され,ご退職後も大阪大学室内楽アンサンブル(OUCE)の団長として活動を続けられました.本学の最終講義でも音楽のことについて少し触れていましたが,人生を豊かにする音楽を1つの目標としておられました.いろいろな目標を日記に記し,時を刻んでおられたことが後でわかり,終始無計画な私にとっては大変大きな刺激になったことを覚えています.また,福井での生活には一人用のお鍋セットが欠かせないと笑いながらにお話しして下さいましたが,冬が寒くて大変だというお話は一度も聞いたことがなく,われわれにはあまり弱音を吐かないことが印象的でした.今年はご自身が大学をご卒業されてから50年が経ち,卒業50周年のクラス会を企画され,幹事も務められていました.当該研究室の秘書さんとも連絡を取り合いながら時々大学に来られ,大学の図書館から古いアルバムをお借りしては1枚1枚スキャンしておられ,準備に余念がありませんでした.急逝された7月6日当日,ちょうど同窓会の相談のために集まる予定だったそうです.前日,体調不良のため打ち合わせに欠席するとの連絡を自らご友人にメールをされたそうです.3週間ほど前から体調不調が続き,当日の朝も奥様の運転で市民病院に行かれ,詳しい検査を受けられたにもかかわらず,入院までは不要との診断で帰宅されたそうです.ソファーで横になっている間に虚血性心疾患のために旅立たれました.去る11月20日,昭和42年3月に卒業した二十数名の大先輩方が母校訪問という形で始まった卒業50周年クラス会に幹事の先生の姿はありませんでした.後悔先に立たずと申しますが,研究以外にも随分と見習うべきところの多かった師を突然にも失い,痛恨の極みでございました.今でも天国から「楽天主義でいけ」,「何とかなる」と激励をいただいていると信じ,頑張っていくしかないと思っています.甲斐先生のご活躍された日々を偲び,心よりご冥福をお祈りいたします.(大阪大学大学院工学研究科井上豪)317