ブックタイトル日本結晶学会誌Vol57No2

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概要

日本結晶学会誌Vol57No2

長倉繁麿先生を偲ぶ以降,薄膜作製装置の開発をはじめ,本格的に金属炭化物(鉄およびNi炭化物)の電子回折法による研究を開始し,多くの学生がこの研究に従事した.これら一連の研究成果を学位論文「金属炭化物の電子回折による研究」としてまとめ,1959年3月京都大学から理学博士の学位を取得されました.金属炭化物に関する研究は,その後,マルテンサイトの変態過程の研究,Fe,Ni,Co,Mo,Tiなどの炭化物,Fe,Ni,Ti,Mnなどの窒化物の変態過程の研究,Fe酸化物の構造などに拡がっています.1971年に長倉先生が教授に就任され,1974年に私が同講座助教授に就任してからは,卒業者の就職先の研究分野などを考慮し,機能性薄膜(磁性膜・化合物半導体)とその特性,X線ドポグラフ法のための良質結晶性の単結晶の作製,合金の相変態の研究へと発展した.先生の研究は結晶学とのかかわりが深い上,きわめて独創に富んだ考え方で広範囲にわたってご研究をするとともに,多くの後進の育成に意を注がれ,研究者,教育者,技術者を社会に送り出されました.これら一連の金属工学分野への電子回折・電子顕微鏡法の応用研究に対して,手島記念研究論文賞,日本金属学会論文賞,谷川・ハリス賞(1986),日本電子顕微鏡学会瀬藤賞(1986),日本材料科学会功績賞(1989)を授賞されています.一方,論文中の掲載写真の質の重要性を強調され,東工大の退官記念事業として「長倉賞科学写真展」を毎年開催し,優れた写真に長倉賞を授与しました.先生は1986年に東京工業大学を退職後,弘津禎彦助教授の居られた長岡技術科学大学(長岡技科大)の教授に就任し,1991年までの5年間勤め,雪国ならではの楽しい教育と研究を楽しまれました.その後日本電子㈱基礎研究部での顧問を2003年3月まで勤める傍ら,エミッター表面に関する最後の研究論文を執筆しております.その間,1995年3月まで早稲田大学大学院客員教授・客員研究員として理工学研究科資源および材料工学専攻,材料解析学研究室で院生の指導に専念されました.先生は,勤務先が変わるごとに新しい趣味を開始され,生活を楽しんでおられました.1972年に私がフランスのA. Authier教授の研究室に留学するときに頂戴したときの七言絶句の漢詩は,マジックペン書でしたが.2013年1月の日付で揮毫した「鷲子山」の漢詩(「足跡」に掲載)はプロ級のでき映えで感動しました.長岡技科大の時期に,特に毛筆と漢詩創作に専心されどちらの技能をも磨かれたことと思われます.先生は,タバコとお茶,そして学生とのおしゃべりがとても好きでした.私たちは先生の語りを「長倉節」と称して,各自がそれぞれ教えられることが多くありました.私の記憶に今なお残っている言葉は,「異文化の接するところ,新しい文化が生まれるように,異質の研究者同士の交流が人のやらないような研究を生みだす」「人生三万日」,「見即是解(色即是空,空即是色の転用)」,「学生を駄目にしなかったならば,教授は教育者としては合格である」などである.こんな話し好きの先生なので,東工大,長岡技科大,日本電子,早稲田大学で先生に接した人は誰でもが先生の相手に感銘を与える話し方とその内容を心に留めていることと思います.また,東工大時代の研究室では,新卒研生が配属されると,毎年5~6月に東京近郊の河原でバーベキュー会が実施された.先生が自ら前日に厚切りの200 g以上もあるステーキを人数分購入し,当日はアメリカから持ち帰った肉焼き用炭火グリル器材を学生が運び,先生自ら肉の焼き具合を見極めて皆に振る舞ってくれました.1994年に新築された横浜市金沢区の長倉宅の庭での新築記念バーベキュー会には門下生とその家族が多数参加し盛大に行われた.特に,私の記憶に残るのは,東日本大震災後,2011年7月に,先生の発案で「桶長入会」(桶谷・長倉・入戸野研同窓会)を福島で開催し,先生ご夫妻はじめ多くの門下生が集まり,皆さんから励ましの言葉をいただいたことです.その後,当時福島大学長をしていた私に奮励を望むと「災害対応の心得」を説いたお手紙を頂戴した.その概要を2012年3月8日の「日本経済新聞」の恩師を語る「交遊抄」に先生への前報告なしで寄稿したところ,全国の多くの方々からの善い反響があり,先生の目にも止まった.ジャーナリズムの力の大きいことを改めて感じた.その中の「右往左往するよりも腰を抜かしていた方が良い」の訓戒は私にとって効験あらたかな教えでした.2013年6月8日には,先生の体調を配慮し,米寿の祝を「桶長入会」で開催し,多くの人からの祝辞で色紙を飾った.2014年7月12日の「桶長入会」では,元気に三万日(82歳)以上生きて来たが,慢性閉塞性肺疾患であるので,後どれだけ生きられるかな‥と淡々と心境を語っておられました.その後電話ではお話をいたしましたが,7月の桶長入会が直接にお会いした最後でした.先生は記録に留めておけば,その記憶は残るものであると,2007年から生家にかかわる思い出の話を編集しはじめ,「学術論文集」(2013.12)を刊行し,研究論文以外の雑記事などのうち専門性の少ないものを個人的記録として収録し「足跡」(2014.5)を刊行しました.先生は,最後まで,常に先を見て適切な行動をしていたのだという思いがする.先生についてはまだまだ語り尽くせない多くがある.私たちは,先生の残された私たちへの励ましの言葉を心に刻んで前向きに生き抜きたいと思う.ここに謹んで哀悼の意を捧げます.(入戸野修)日本結晶学会誌第57巻第2号(2015)135